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2008年6月16日 (月)

小谷村

Dsc_0006a  先日、長野県小谷村出身の女性の方から聴いた話しだ。小谷村(おたりむら)というのは、同じ北安曇郡だが、大町市を通り過ぎて、白馬村も通り抜けて、新潟県に近いかなり北に行ったところだ。雪深い山里という印象である。両親と同居していた伯母が亡くなり、高齢の両親に替わって喪主を務める事になった。大町市にある民間の斎場でお葬式を済ませて、村に帰ったのだが、自宅でも、斎場に行かれなかった部落の人達や、式に参列した人達も一緒に、再びお葬式のような法要が営まれたということだ。遺灰を迎えるために部落の人達が待っている場所に立ち止まって、ご挨拶をしてから、葬儀に出って行った道からではなく、古い道を歩いて自宅に戻り、それから式が始まった。都会の斎場でも、火葬場から戻るときに同じ道を通らないという習慣を守っているところがあるようだが、個人の葬儀のすべてが終わっても、まだ部落の人の死を弔うと言う部落の儀式は終わっていなかった。墓場では、遺灰を土に還す儀式も行われた。骨壺から骨を素手でつかみだし、頭から順番に並べて埋めるのだそうだ。それが喪主である彼女の役割であるということだった。

 人の死が、生存者の都合で、簡単に処理されてしまう現代にあって、時間と労力をかけて、死が厳粛なものとして、弔う大切さを教えてくれる習慣が残っていることに感動した。死と言うことが、どういう意味を持つか、こうした厳粛な葬儀の光景が脳裏を過ぎってくれたら、刹那的な行動に走る若者への抑止力になってくれそうな気がする。しかし、珍しい話しとしてしか聞かれない現状に、日本の悲劇があるような気がする。

 

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コメント

 15才で父を送った私は葬儀は残された者のためにあると思っている。
 人生は山登りに例えられるけれど、最近人生は上り坂だけではないかと思い出した。頂上に近づくにつれて 体が悲鳴をあげだす。登頂した時の喜びが無ければ耐えられないのではないかと。それが宗教なのかもしれない。

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